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Review ハートアンドハーツ・コリアン・フィルムウィーク 『春の夢』『バッカス・レディ』『空と風と星の詩人~尹東柱の生涯~』 ~憂鬱と悲しみを癒やす映画の旅

Text by Kachi
2017/7/23掲載



 ソウルの地下鉄6号線「ワールドカップ競技場」駅で降りて、韓国映像資料院へと足を運ぶ。ただでさえ最寄り駅から遠い、韓国映画の聖地へ徒歩で向かったある時、何かのはずみで、反対側の京義線「水色」駅の方へ渡ってしまった。列車の架線の向こう側にデジタルメディアシティのビル群が見えるけれど、一向にたどり着けない不安がよぎる。駐車場入り口でくすんだ色のビニールがはためく、古式ゆかしいモーテルの顔つきだけでも、ここが高級ホテルや放送局がひしめく上岩洞と平行して立つ街なのだろうかという戸惑いと、名状しがたい高揚感を覚えたことを鮮明に覚えている。

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『春の夢』

 「上岩の人はみな準備ができている表情をしているけれども、水色洞では全く準備のできていない表情に出会える」とは、そんな水色洞を物語の舞台にした『春の夢』のチャン・リュル監督の言葉だ。「準備のできていない表情」という言い回しほど、水色洞の人と町並みを表現するのに、これ以上の似合いはないと感じた。

 イクチュン、ジョンボム、ジョンビンの『風吹く良き日』よろしくな「ぬけさくトリオ」と、彼らの憧れのイェリ。3人は我こそイェリをものにしようと足を引っ張り合い、彼女が一人切り盛りする居酒屋で日々とぐろを巻いている。けれども、温室育ちで気楽そうなジョンビンは持病で頻繁に卒倒してしまうし、北出身のジョンボムは勤め先の社長から理不尽なクビを宣告されている。イクチュンも昔のワル仲間との悪縁を断ち切れないようである。活発なサッカー少女ジュヨンはイェリへの叶わぬ想いに胸を焦がす。にぎやかな宴もすべて泡沫に帰すことを想起させるアバンタイトルのように、みなかりそめに笑顔を浮かべながらも、憂鬱やもどかしさ、時に深い絶望をその身に宿している。

 ヒロインであるイェリの大胆さと余裕に3人はすっかりやられているが、北で生まれた彼女も母親を病気で亡くし、その上、一度は自分たちを捨てた父親が全身麻痺で寝たきりとなり、介護に追われている。一度、理想的な男性がイェリの店を訪れるが、まるで幻のように去って行ってしまう。「こんなではない私の人生が、どこかにあり得たはず」という夢想が目先で消えていく孤独は、誰に分かろうはずがない。チャン監督といえば、過去作『唐詩』での女性の舞踊シーンが印象深いが、『春の夢』でイェリが披露するゆるやかな舞は、優雅でありながら物悲しい。男3人が1人の女を巡り、ゆるい恋のさや当てに邁進する様や、モノクロームのルックはホン・サンスを彷彿とさせる。だがチャン監督の作品群は、多くにしてその水底にやりきれない悲しみがたゆたっていて、本作も通底するものがある。

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『バッカス・レディ』

 「バッカス1本いかが?」と、栄養ドリンクを差し出すのが誘い文句。『バッカス・レディ』は、鍾路に位置するタプコル公園で、“バッカスおばさん”と呼ばれる高齢女性たちが春をひさいでいるというショッキングな主題―しかも実話である―に目が行きがちであるが、まるでノンフィクションのような筆致と、味わい深いペーソスで、高齢娼婦の人生の夕暮れを描ききっている。

 主人公のソヨンは、かつて“洋公主”(在韓米軍を対象にした売春婦)で、今は初老の韓国人男性が相手である。しかし、近頃は実入りも芳しくない。客も高齢ゆえに、病や死で姿を見せなくなっていた。ある時、半身不随で人生を悲観した過去の馴染み客から、安らかに死なせてほしいと懇願される。

 死ぬほど気持ちよくさせてくれる性技の持ち主として評判の彼女が、現実に死ぬ手伝いをするというのは、実にブラックな洒落だが、冒頭、ある訳ありの男児を、ソヨンがもののはずみのように保護してしまった本当の理由を誰も分からないように、表向きに見えるものと事実には大きな隔たりがあり、しかも他人はうかがい知れないものである。ある瞬間にソヨンがつぶやいた「本当のことは誰にも分からないもの。外側だけで決めつけるのね」という台詞は、彼女の人生に染みこんだ労苦についてにも言えることなのだ。

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『空と風と星の詩人~尹東柱の生涯~』

 日帝時代を舞台にした作品は、その中で傷ついた人々の記憶に焦点が当てられ、スクリーンに表現されることがほとんどである(もちろん、そうあるべきである)。『空と風と星の詩人~尹東柱の生涯~』は、尹東柱(ユン・ドンジュ)とそのいとこである宋夢奎(ソン・モンギュ)が京都で逮捕され、特高警察による執拗な取り調べの場面から始まる。無論、私たちが省みるべき歴史的悲劇とは無縁ではない。だが、この映画が趣を異にしているのは、悲惨な時代に砕け散った青春にこそ主眼が置かれている点だ。若さを生きる不安や嫉妬が、美しいモノクロ画によって柔らかく活写されているのだ。

 イ・ジュニク監督は東柱と夢奎の関係を「尹東柱にとって宋夢奎は、自身の影のような存在」と考えたという。では「影」の夢奎にとって、東柱はいかなる存在だったのだろう。散文が新聞に掲載されるほどの文才を持ちながら、なぜ彼は武力による革命運動に身を投じたのだろうか。

 劇中、時に東柱と夢奎は激しくぶつかり合う。「自分も独立運動の仲間に加えてほしい」と訴え、「お前は詩を書け」とはねつけられる東柱は、劣等感に似た感情を募らせていく。夢奎は直接的な革命にしか国家の希望を見出せなかったのかもしれないが、それ以上に、東柱とその詩才のため、ペンを銃に変えたのではないか。東柱が永遠に無垢なままであらんことを望んだがために。

 父子の軋轢で命を落とした悲劇の息子『思悼』(邦題『王の運命(さだめ) ―歴史を変えた八日間―』)。心身の深い傷から必死に立ち直ろうとする少女の名を冠した『ソウォン』(邦題『ソウォン/願い』)。イ・ジュニク監督の作品のいくつかは、そのタイトルが、ある特定の人物に対する、慰めに満ちた呼びかけになっている。『空と風と星の詩人~尹東柱の生涯~』の原題は、『ドンジュ』である。彼の存在に心を揺り動かされた者たちが、その名を呼んでいる。

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ハートアンドハーツ・コリアン・フィルムウィーク


『春の夢』
 原題 춘몽 英題 A Quiet Dream 韓国公開 2016年
 監督 チャン・リュル 出演 ハン・イェリ、ヤン・イクチュン、パク・ジョンボム、ユン・ジョンビン
 2017年7月22日(土)より、特集上映「ハートアンドハーツ・コリアン・フィルムウィーク」の1本としてシネマート新宿ほか全国順次ロードショー
 公式サイト http://www.koreanfilmweek.com/

『バッカス・レディ』
 原題 殺してあげる女 英題 The Bacchus Lady 韓国公開 2016年
 監督 イ・ジェヨン 出演 ユン・ヨジョン、チョン・ムソン、ユン・ゲサン
 2017年7月22日(土)より、特集上映「ハートアンドハーツ・コリアン・フィルムウィーク」の1本としてシネマート新宿ほか全国順次ロードショー
 公式サイト http://www.koreanfilmweek.com/

『空と風と星の詩人~尹東柱の生涯~』
 原題 동주 英題 DongJu; The Portrait of A Poet 韓国公開 2016年
 監督 イ・ジュニク 出演 カン・ハヌル、パク・チョンミン
 2017年7月22日(土)より、特集上映「ハートアンドハーツ・コリアン・フィルムウィーク」の1本としてシネマート新宿ほか全国順次ロードショー
 公式サイト http://www.koreanfilmweek.com/


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Review 『きらめく拍手の音』 ~健聴の娘が描いた、ろう両親の完璧な世界

Text by 井上康子
2017/5/28掲載



 健聴者は両手をパチパチたたく聴覚的な拍手をするが、ろう者は両手を上げて手首を回しながら振る。この視覚的な拍手は、あたかも星が輝いているようで美しい。本作はイ=キル・ボラ監督によるドキュメンタリーで、冒頭のこの拍手によって、監督は「ろう者とは視覚による文化を持った人々なのだ」と軽やかに宣言し、ろう両親の手話によるにぎやかな会話が飛び交う日常と家族のこれまでを追っていく。

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 ろう者の伝統的な手話では、手の動きの他にさまざまな表情の変化が文法的に意味を持っている。表情の変化が少ない健聴者の会話と比較すると、圧倒的にインパクトがあり、引き付けられる。結婚までの経緯の中で、父は若き日にサッカー選手として活躍していたが、ろう者の国際試合から帰国した空港に出迎えを約束した母が来ていなかったのでガーンとショックを受けたことを、そして、母は美貌でラブレターが山のように届いていたので読まずに捨てたことを語ったが、表情の豊かさと簡潔な手指の動きのおかげで、まるで再現フィルムを見せられたように情景が浮かんでくる。

 二人のこれまでは、聴こえないための苦労、IMF危機時の父の失業など困難が多かった。監督が生まれた時は夜中に赤ん坊の泣き声に気づけるように補聴器を装用すればかすかに音が聞こえる父が補聴器を耳に固定するようにしたものの、両親はすっかり寝不足になった。監督と弟が歩き始めると母は家事をしながらも片時も目を離さなかった。失業した父が、たい焼き屋台を始め、他の誰も店を出さなかった大雨の日にも店を出したことを振り返り、母は「父さんは害虫よりもしぶとい」とあっけらかんと言い放ち、二人は笑い合う。強固に結びついた、たくましい二人が、表情豊かに手話で会話をする世界は何とも幸福感に満ちていて、監督の言葉通り「完璧な世界」だ。聴こえないという障害はあっても二人の世界に欠落はない。

 両親は明るく、世の中を割り切って生きてきたが、彼らの溢れんばかりの愛情を受けて育った監督と弟はコーダ(CODA, Children of Deaf Adults:ろうの親を持つ健聴の子)としての葛藤を抱えていく。監督は親の通訳者として、9歳の頃には銀行に借金の額を聞き、引越し前は大家に家賃と保証金を尋ねる役目を負わざるを得なかった。「障害者の子だから問題を起こした」と言われないように二人は小中学校では常に模範的に振る舞う。だが、高校入学になると、親の障害から逃れようと二人共が全寮制の学校を選択し、早くに親元を離れてしまう。

 希望校に進学したが監督は「さらに広い世界を見たい」と高校中途で東南アジアへの旅に出る。そして、広い世界を見たことで、ろう者は弱者ではなく、誇り高き存在なのだと気づく。みずみずしい映像を通して、自らの気づきを知らしめんという意思がひしひしと伝わってくる。あるコーダの成長譚でもあることがこの作品の大いなる魅力だ。


『きらめく拍手の音』
 原題 반짝이는 박수 소리 英題 Glittering Hands 韓国公開 2015年
 監督 イ=キル・ボラ 出演 イ・サングク、キル・ギョンヒ、イ=キル・ボラ、イ・グァンヒ
 2017年6月10日(土)より、ポレポレ東中野ほか全国順次公開
 公式サイト http://kirameku-hakusyu.com/

Writer's Note
 井上康子。福岡在住。2009年にアジアフォーカス・福岡国際映画祭で上映された、マレーシアのヤスミン・アフマド監督長編遺作『タレンタイム』が8年を経て劇場公開中。異民族の世界に加え、ろう者の世界も肯定する作品の暖かみを8年前以上に私たちは求めているのではないだろうか。


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Review 『トンネル 闇に鎖(とざ)された男』 ~災害をユーモアで描いた中にある、監督の怒り

Text by Kachi
2017/5/2掲載



 セウォル号の沈没から早や3年の月日が経った。この3月にようやく海底から引き上げられた船体は、在りし日の姿を辛うじてとどめてはいるものの、もっと長い年月放っておかれていたように朽ちかけていた。

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 キム・ソンフン監督と言えば、ふたりの汚職警官が巻き起こすモラルなき追走劇『最後まで行く』で、その異能ぶりが世間に知れ渡った。本作『トンネル 闇に鎖(とざ)された男』はいわゆるディザスター・ムービーで、前作とはかなり趣向を変えてきている。韓国は、未曾有の海難事故を経験した。日本も幾度も大きな震災があり、東北と熊本の傷痕は今も癒えたとは言い難い。そして5年前には、トンネルの天井板が落下する事故で死者が出ている。現実がフィクションを超える悲劇に見舞われてしまった今、映画をどう受け止めたらいいのだろうかと、観るのをためらう人も多いかもしれない。しかし、試写で鑑賞して、それが思い過ごしであったことに気づかされた。

 ごく普通のカーディーラー、ジョンス(ハ・ジョンウ)は、仕事の帰り道でトンネルに差し掛かった瞬間、崩れ落ちた天井の下敷きになり、車ごと埋まってしまう。何とか一命は取り留め、救急隊と連絡を取ったジョンス。彼の手元にはペットボトルの水2本、スマートフォン、幼い娘のために用意したバースデーケーキがあるだけだった。救助活動が難航する中、崩落は進み、状況は日増しに悪化していく。

 ジョンスを阻むがれきは、セットとCGの境界が判別できないほどで、「本当に役者を埋めたのか?」と錯覚するほどだが、この映画の凄みは空間によるものだけではない。序盤、トンネルが崩落する場面。類する映画によく見られる、たとえば緩むねじや周囲の震動といった不幸の予兆のカットがない。現実の災厄とは、何も分からぬままこうして降りかかると痛感させるリアリティが冴えている。

 その一方で、「決してパニックにならず、冷静でいるように」と救急隊長から言い聞かせられたジョンスが、極限下で日常を保とうとするさまや、ある闖入者とのやりとりに笑いがこみ上げる。火星に一人取り残される宇宙飛行士のサバイバルを描いた『オデッセイ』のユーモアとポジティブさに似ている。生きるか死ぬかが懸かった局面に持ち込まれた生活の感覚が、緊迫感とのズレを生み、特に映画の前半に笑いを生んでいるのだ。

 夫の無事を祈る妻セヒョン(ペ・ドゥナ)の献身など、韓国映画お得意のヒューマニスティックな展開を期待するところだが、キム・ソンフン監督は王道を巧く逸れていく。その役回りが、キム救急隊長に扮したオ・ダルスであった。「シーン・スティラー」と呼ばれて久しい彼が登場すると、作り手の技量如何によることなく、なんとなく見栄えのいい映画になってしまうせいか、時折「オ・ダルスの持ち腐れ!」と怒りたくなる映画を目の当たりにする。だが今回は持ち前のコミック・リリーフとしての力量を見せつけながら、漢泣きを搾り取っていく。

 仰々しく事故現場を視察に来た官僚連中と、横暴な報道陣。そして、ある不幸な出来事をきっかけに、ジョンスに対する世論は風向きが変わる。大きな声が蔓延させる同調圧力に、たった一人のか細い声はかき消される。キム救急隊長だけが、ジョンスが生きていることを信じて疑わなかった。こうした信念が、セウォル号事故救出の現場に欠けていたのではないか。2014年4月以降、韓国では『グエムル -漢江の怪物-』(2006)が、事故を彷彿とさせると思わぬ注目を浴びたという。得体の知れない漢江の化け物に丸呑みされ、しかし奇跡的に生きていた娘から家族に電話がかかってくる映画のくだりに、ある日突然海の底に消えてしまった我が子を重ねたかもしれない家族の悲痛を、政府の誰かが推し量っただろうか。最終的に信じられるのは、大文字の「国家」でも「国民」でもないという作り手の絶望。人の不運をエンターテイメントにするのではなく、しかしユーモアで軽やかに描く中に、何と激しい憤怒が込められているのか。

 最新作『お嬢さん』が3月に日本で劇場公開された際、パク・チャヌク監督は昨今の韓国映画勢が放つエネルギーの理由を「たくさん苦労しているから。ここまで堕落した政府を経験したことはないと思うし、一般の人たちが抗議したりデモしたり。感情の起伏が激しくならざるを得ない一方、豊かでドラマチックな映画ができるのでは」(2017年3月3日、朝日新聞夕刊より)と語った。確かに『お嬢さん』は、才気がほとばしっていた。キム・ソンフンも間違いなく、そうした映画人の一人である。


『トンネル 闇に鎖(とざ)された男』
 原題 터널 英題 Tunnel 韓国公開 2016年
 監督 キム・ソンフン 出演 ハ・ジョンウ、ペ・ドゥナ、オ・ダルス
 2017年5月13日(土)より、シネマート新宿、シネマート心斎橋ほか全国順次ロードショー
 公式サイト http://tunnel-movie.net/


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Review 『お嬢さん』『アシュラ』『哭声/コクソン』 ~愛と血と暗闇の新しき幕開け

Text by Kachi
2017/3/1掲載



 3月公開の『お嬢さん』『アシュラ』『哭声/コクソン』の3監督は、いずれも待望の新作である。パク・チャヌク監督は3年の歳月をかけて真っ当に成し遂げたメロドラマ『お嬢さん』を作り上げ、ナ・ホンジン監督は6年の沈黙を打ち破って怪物『哭声/コクソン』を産み落とした。キム・ソンス監督が心の中で長らく温めていた『アシュラ』は、みじめなアウトローの生きざまに痺れさせてくれた。

 愛情は濃くじっとりとし、赤黒い血はむうっと生臭く、暗闇の出口は見えない。韓国映画には「過剰」の聖域が存在する。

『お嬢さん』【Sympathy for "Girl" Vengeance】


 この映画の原題は『アガシ/아가씨』。邦題は『お嬢さん』だが、英題は『The Handmaiden』で「侍女」、仏題は『mademoiselle』で「若い婦人」を意味している。格差を持つふたつの身分が、両義のように作品に冠された意味は、どうやら原作となったサラ・ウォーターズ「荊の城」に種明かしがあるようで、パク・チャヌクの敬意がうかがえる。その一方、「望んだ結末とは違っていたことに気づいた」(プレス掲載の監督インタビューより)ことが、創作の動機付けとなった。

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 『お嬢さん』は、掏摸(スリ)で孤児のスッキ(キム・テリ)が、藤原伯爵を名乗る詐欺師(ハ・ジョンウ)の企みに乗り、華族の令嬢・秀子(キム・ミニ)の侍女・珠子として上月家に入り込んだものの、やがて秀子と身も心も交わしていく第一章、秀子の幼少時代からこれまでを語る第二章、劇的な展開をみせる終章の第三章から成るが、特に原作の前半が忠実になぞられながら、簡潔なストーリーラインにまとめられている。原作はヒロインのモード(=秀子)とスーザン(=スッキ)の出自と出逢いを、各々の視点で語ることに紙幅が割かれていて、また、騙し合いと愛の顛末まで二転三転することや物語の余白が、ミステリーとしての強度を高めている。劇中、書痴家でサディストの叔父(チョ・ジヌン)が、幼い頃から姪に有無を言わさず春本を読み込ませ、美貌の朗読人形に仕立て上げる筋立ては「荊の城」も同じで、朗読という行為にある、自分以外の他者の声を介して物語を想像しなければならない不自由さに、倒錯したエロティシズムが匂う。さらにその肉体ではまだ知るよしもない少女に、特殊な形の性行為について朗読させること自体、明らかな嗜虐趣味である。

 春画は通称「ワ印」とも呼ばれ、そこで描かれてきた性愛の儀式は、笑いとして大衆に親しまれたものだった。公開に先駆けた上映の舞台挨拶での、「映画を観ながら積極的に笑って欲しい」というパク・チャヌクの発言や、珠子が秀子とのまぐわいで洩らす大げさな感嘆のセリフなども、そうした受容史が意識されてのことだろう。一方、春画は「人間の内部における植民地支配」(プレス掲載の監督インタビューより)、すなわち、日本帝国主義の永続を信じていた韓国の支配階級が耽溺した日本文化を象徴させたという。

 過去作『親切なクムジャさん』のように、『お嬢さん』には「女性の復讐」という主題がある。パク・チャヌクが求めたのは、ふたりのヒロインが劇中の破廉恥漢から性愛を奪い返すことだ。女性主体の獲得、あるいは奪還と性欲の解放は、『渇き Thirst』『イノセント・ガーデン』ですでに示されていたが、『渇き Thirst』の欲求不満の人妻は、奇病を患い吸血鬼となった神父との血の交歓で悦びに目覚め、『イノセント・ガーデン』の少女は、叔父から暗示的に快楽を教え込まれる。つまり、いずれも男性の手が入る「解放」だったとも言える。『お嬢さん』では、男とでは到底不可能なやり方でふたつの身体が揺れ動く時、どこからか可憐な音が鳴る。この映画は、ふたりの少女が己のエクスタシーに忠実に綴った、イノセントな春本なのだった。

『アシュラ』【虫けらへの鎮魂歌】


 大物の周りをうろちょろしては真っ先に犬死にする、権力者にとっては死のうが生きようがどうでもよい下っ端たちをメインにした地獄のしばき合いが、『アシュラ』では情け容赦なく続く。アウトローが主役となる映画だけでも、古くは『将軍の息子』シリーズ、最近では『チング』2部作や『悪いやつら』『新しき世界』『コインロッカーの女』と、あまりに傑作が多く誕生している韓国映画界において、後発の作品は過去の紋切り型となりがちである。『アシュラ』もそんな非情な運命(さだめ)を避けられないかと懸念したが、どうやら奈落をもう一つ開けたようだ。

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 アンナム市にニュータウン誘致を推し進める俗悪なパク・ソンベ市長(ファン・ジョンミン)の雑用に手を汚す刑事のドギョン(チョン・ウソン)が、市長の前でガラスのコップを噛み割る。それだけで相当の凄味ではある。ソンベに飼い犬として扱われ、市長検挙に野心を燃やすキム検事(クァク・トウォン)には弱みをネタにゆすられる。可愛がっていた後輩ソンモ(チュ・ジフン)は、市長の腰巾着になった途端、兄貴分を格下扱いする。絶望のぬかるみにはまったドギョンがぶちまけた血のガラス片は、まるで砕け散った彼のプライドのようだ。だが、ドスもチャカも全く恐れず、身の危険すらデマゴーグの道具にするバケモノのソンベ市長が、劇中で唯一縮み上がる瞬間なのだ。

 俺もじきに死ぬだろうが、お前も生かしておかない。『アシュラ』の面々には、そんな人間の生き身の限界を超えた存在が宿っているのか。アンナムは架空の都市だが、見渡す限り貧民街のようで、穏やかな陽光が降り注ぐことはない。長い闇に支配されているアンナムこそ、みじめな男に似合いの墓場なのだ。しかし、それでも見せる執念、いわば虫けらの矜持という極北がこの映画にある。

『哭声/コクソン』【この恐怖から逃れるために】


 次々起こる惨殺事件。多量に流される血。静かに伝染する奇病。のどかに見えながら、瘴気をまとった土地。映画のはじまり、村に入り込んだよそ者(國村隼)が仕掛けている釣り針の餌のように、まるですべてが観客を惑わせる罠のようだ。

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 プロローグでは、聖書から「ルカによる福音書24章37節~39節」が引用される。磔にされた7日後に姿を現せたイエス・キリストが、その復活を信じられない弟子へ語りかける場面で、最後まで『哭声』を深く貫いている。

彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。そこでイエスが言われた、「なぜうろたえているのか。どうして心に疑いを起すのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」(新共同訳「聖書」2003年、日本聖書協会)

 ナ・ホンジン監督自身信仰を持っているそうだが、すでに長編デビュー作『チェイサー』において、こうしたキリスト教のイメージや神の存在がほのめかされている。人間をゴミ扱いしてきたデリヘル店長のジュンホにも、殺人鬼を断罪できない。そしてこの惨事について、神は一筋の光も残さなかった。だがもし、偶然の瞬間に神が宿るのだとして、監禁されてのちに殺される風俗嬢の娘に引き合わせたのも、その子が傷を負って病院に運ばれたとき、生きるに値しないジュンホがそれでも這い上がる一瞬─私たちが「救済」と呼ぶものだろう─をつかめるか試したのも、また神の御業だったと言えまいか。映画の中で起こった惨劇と後味の悪さ以上に『チェイサー』は深い問いを突きつけていった。

 『哭声』は、殺人事件、奇病と次々村に降りかかる災厄に対し、村人以外の人物を脊髄反射的に疑い、解決を土俗信仰に頼ってしまうあたりに、村社会の鈍感さと閉鎖性が明確だが、ナ・ホンジンはこうした「見たい」または「見ている」世界の狭さを、後の取り返しのつかない惨劇に繋げている。とにかく作品は高い緊張のまま進んでいくが、同時に、災いを前になすすべなく狼狽(うろた)え、逃げ惑い、あり得ない理屈を信じ込んで右往左往する人間の姿に、時折笑いがこみ上げるのも事実だ。劇中「見る」という行為についての会話が、ひっきりなしに交わされている。夜、交番の外に誰かが立つのを。誰かが誰かを刺し殺す瞬間を。あるいは夫婦の性生活を。「お前が見たのか?」「いつから見ていた?」「どこまで見ていた?」…。やがて何者かが「私をよく見なさい」とささやく。目の前の絶望を信じさせようとして。

 先に行われたプレミア上映会でのティーチインで、國村隼が口にした言葉が最もよく表していよう。曰く「そこに存在しているのかどうかも分からない、その男を見たという人の話の中にいるだけ」にもかかわらず、「自分の目の前にいる男から“お前は何だと思うんだ”と聞かれてしまう」ことで、目の前の「それ」は聖にも邪にも姿を変えてしまう。それを目撃することによって、その存在を信じざるを得なくなってしまうということだ。よく、人間は見たものしか信じないとされている。逆に言えば、信じたいと思った形でしか、物を見ることができないのだ。「見る」という行為から、人間は逃れることができない。『哭声』の恐怖はここにあるのではないか。

 しかし同時に、目に見えず、実体に触れることもできない神を信仰するように、人間は目に見えなくても何かを信じることができるということも、私たちはよく知っている。そのことは、映画を観るという行為にも拡大できよう。あらゆる芸術について、相対する者は如何様な解釈も可能だが、映画のそれは視覚に依存するところが大きく、スクリーンの中に見ている世界という制約がある。だが観客は今、見ているものを疑うことができる。『哭声』のラスト、蒼白の顔でおののく男の先に、救済を見出すことも可能なのではないか。「心に疑いを持つのか?」は反語であり、「心に疑いを起こせ」と言っているのだ。

 さらには、私たちが今生きている世界を見つめる営みにも言うことが出来る。私たちには、見ているこの世界を疑うことが許されているのだ。


『お嬢さん』
 原題 아가씨 英題 The Handmaiden 韓国公開 2016年
 監督 パク・チャヌク 出演 キム・ミニ、キム・テリ、ハ・ジョンウ、チョ・ジヌン、キム・ヘスク、ムン・ソリ
 2017年3月3日(金)より、TOHOシネマズシャンテほかロードショー
 公式サイト http://ojosan.jp/

『アシュラ』
 原題 아수라 英題 Asura : The City of Madness 韓国公開 2016年
 監督 キム・ソンス 出演 チョン・ウソン、ファン・ジョンミン、チュ・ジフン、クァク・トウォン
 2017年3月4日(土)より、新宿武蔵野館ほか全国順次ロードショー
 公式サイト http://asura-themovie.jp/

『哭声/コクソン』
 原題 곡성 英題 THE WAILING 韓国公開 2016年
 監督 ナ・ホンジン 出演 クァク・トウォン、ファン・ジョンミン、國村隼、チョン・ウヒ、キム・ファニ
 2017年3月11日(土)より、全国ロードショー
 公式サイト http://kokuson.com/


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Review ホン・サンス偏愛家が語る『ひと夏のファンタジア』『今は正しくあの時は間違い』、そして『あなた自身とあなたのこと』 ~知ることは過去、愛すことは今

Text & Photo by Kachi
2017/2/4掲載



 2016年に日本で一番愛された韓国映画は何かと問われたら、やはり『ひと夏のファンタジア』に尽きるだろう。6月に劇場公開されて終映を迎えた後も、秋から続いた各映画祭や特別上映会など引く手あまたで、チャン・ゴンジェ監督の姿を見かける機会も多くあった。その恩恵で前作『眠れぬ夜』もアテネ・フランセ文化センターで再上映され、監督の旧作が新しいファンに届いたことは喜ばしかった。

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TAMA CINEMA FORUMのトーク、韓東賢氏(左)と菊地成孔氏(右)

 そして昨年11月、第26回映画祭TAMA CINEMA FORUMの<ホン・サンス/チャン・ゴンジェ -映画でめぐる夢と出逢い->にて、『ひと夏のファンタジア』と『今は正しくあの時は間違い』が上映された。チャン・ゴンジェが「第二のホン・サンス」と称されるのは割と定着しているように思っていたが、こうして併映する試みは初めてだったのではないか。上映後には、社会学者の韓東賢氏と、『ひと夏のファンタジア』を激賞した評が韓国版映像ソフトのブックレットに掲載されたという、ミュージシャンで映画批評家の菊地成孔氏が登壇してのトークが開催された。菊地氏は「この2本は異様に胸をキュンとさせる。我々は『ひと夏のファンタジア』のような夢と現実の反復から逃れられない。夢でしか得られない極端な感情があり、夢だからこそ胸がキュンとするし、一瞬で恋の結末が変わることを『今は正しくあの時は間違い』で見せられるからキュンとする」と熱く話した。

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『ひと夏のファンタジア』

 奈良県五條市の旅情をかき立てる風景や、夢と現(うつつ)とを行き来するような物語構成など、語りどころの多い『ひと夏のファンタジア』だが、一番観客に強く印象づけたのは、ラストでのヘジョン(キム・セビョク)とユウスケ(岩瀬亮)のキスシーンだろう。トークショーで菊地氏も言及していたが、このシーンは本当の不意打ちで作られている。映画前半、映画作りに必要なのは「準備をしない」ことという会話が登場人物同士で交わされていたが、なるほど、そこがすでに伏線になっていたのだ。ユウスケのリードによるキスは、監督が「拒まれてもいいので、キスしようとするように」と岩瀬に伝え、キム・セビョクには別の指示を出していたというのは、演出方法としては少々禁じ手のように思うけれど、不意打ちから甘美な場面が立ちあがってくるというのは、あのシーンが生み出す名状しがたい、胸がキリキリするような切なさが十分証明している。そして、あの場面の成り行きがある程度キム・セビョクに委ねられていて、彼女が反射的にあの反応を選んだのなら、ラストシーンの素晴らしさは、ひとえにキム・セビョクの役者的勘がもたらしたものだと、彼女を大いに称えたい。

 これもトークで菊地氏が触れていたが、『今は正しくあの時は間違い』をきっかけとした監督と女優の恋愛騒動を、韓国映画に詳しい方々ならばご存じだろう。筆者は、ホン・サンスがこうしたゴシップを振り舞いたことを、特に驚かずに受け入れた。数々の浮き足だった男女関係や道ならぬ恋を作品で示してきたホン・サンスだから…、という単純な意味ではない。フィクションが現実を侵犯したのだということでもない。近作『自由が丘で』や後述する新作『あなた自身とあなたのこと』といった、語りの実験的な作品と比較した場合、『今は正しくあの時は間違い』は、どこかいつもと異なる気分をまとった映画であったからだ。

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『今は正しくあの時は間違い』

 たとえばホン・サンスといえば、男と女の仲が深まる途上としての、差し向かいでの酒席が不可欠で、それを長回しで捉えた構図が「ホン・サンス スタンダード」だったが、『今は正しくあの時は間違い』でエピソードの大きな転換点となる刺身屋での一幕は、ハム監督(チョン・ジェヨン)とヒジョン(キム・ミニ)が横並びで座り、それを手前から縦に捉えた構図で、趣の異なる男女の近さを感じさせたのだ。

 さらに胸が騒いだのは、男と女が出来上がっていく作劇を補強するズームだ。ホン・サンスは以前、ズームを使用する理由について「ここで何を見せるかを同じ空間で見せられること」、「俳優がカットでつながる演技を意識しなくてよい」、「ロングテイクの中にリズムが出来、笑いも生まれる」などを挙げていた(とはいえホン・サンス映画の偏愛家たちは、より深い意味を見出さずにいられようか)。確かに『次の朝は他人』で使われるズームは、主人公の映画監督がバーの女主人を凝視するカットで用いられ、ワケありの相手と瓜二つな彼女を執着たっぷりにまなざす顔を示して笑いを誘ったが、『今は正しくあの時は間違い』では、ハム監督が妻子持ちだと知ったヒジョンの衝撃と失意を見せるためだった。ズームは抜き差しならない二人の恋路というストーリーの主旋律に収れんされ、(作品の質を決して毀損するものではないにせよ)端的に言って全体が過度に分かりやすい話になったのだ。『今は正しくあの時は間違い』を明らかにメロドラマとして成立させようとする欲望がそこに脈打っていたのだと、今も思えてならない。

 第29回東京国際映画祭で披露された新作『あなた自身とあなたのこと』は、画家のヨンス(キム・ジュヒョク)が主人公だ。ある時、恋人のミンジョン(イ・ユヨン)について、あちこちで男と呑んでは喧嘩をふっかけているという噂を、友人(キム・イソン)から聞かされる。「酒を飲み過ぎない」という二人の約束を破ったことに憤慨したヨンスは、帰宅したミンジョンを問い詰めて口論に。結果、ミンジョンから「距離を置こう」と言われてしまう。翌日、ヨンスはミンジョンの自宅や職場に出向いて許しを請おうとするが、肝心の彼女には会えず、焦燥が募る。

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『あなた自身とあなたのこと』

 ところで、劇中では不思議なことが起こっている。ジェヨン(クォン・ヘヒョ)は、カフェで偶然ミンジョンに出くわし親しげに声をかけるが、彼女は「自分はミンジョンではない」とやんわり突っぱねる。やがて「私はミンジョンの姉妹だ」と答えると、「ミンジョンもきれいだが、君もなかなかだね」と、男はすんなりと彼女を受け入れてしまう。サンウォン(ユ・ジュンサン)は同じくカフェにいたミンジョンに、「以前出版社で働いていただろう?」としつこく話しかけるが、またもや女は「記憶にない」と答える。それでも男は、この“ミンジョンそっくりの彼女”と、下心見え見えに一杯を楽しんでしまう。

 『あなた自身とあなたのこと』は、SFなのかオカルトなのか、自分を含めた過去の記憶を一切喪失してしまう女性の悲劇なのか…。観客としては、どうにかしてこの映画のつじつまを合わせたい。つかまえられないミンジョンと、どうにか彼女に近づきたい男たちとのじりじりする鬼ごっこ、あるいはかくれんぼが、そんな観客を巻き込み繰り広げられていく。“ミンジョンそっくりの彼女”は、「私を知っているの?」というセリフを、男たちへ繰り返す。しかし、彼らが分かったように「君はミンジョンだろ?」と言い放っても、彼女を決してモノには出来ない。

 思えば私たちは、相手の過去についてばかり知りたがっている。年齢や名前はもちろん、短気、穏和、ポジティブやネガティブといった性格でさえ、これまで自身が遭遇した出来事への平均的な反応から導いた情報だと言ってもいい。そうした「過去」と、目の前に向きあっている「今」は、果たしてどれほどイコールで結ばれ得るのだろう。“ミンジョンそっくりの彼女”は、亡霊のような過去から自由になって、「今」という瞬間に存在する自分を愛してもらいたいのだ(そうした人間の願望は、すでに前作『今は正しくあの時は間違い』というタイトルに現れていた!)。かくまで「今」が絶対的に肯定されるべきなのは、人生が後戻りできず、未来に何があるかも分からないなら、今見えているこの瞬間を肯定するぐらいしか手立てがないからではないか。私たちの生活には、どれほどの「知らない」があふれているか。その知らなさの中に、人生の秘鑰(ひやく)を探すことが、私たちの営みのすべてなのだ。

 小説ではイメージが不可視であるという特性を使って、人称のトリックが使われる作品がいくらでもある。語り手が「私」と言ったところで、劇中の誰の言葉なのかは判然とせず、時に信頼できない語り手が、読み手を幻惑するからだ。しかし映像として表現される映画という芸術では、「私」が特定され、ミンジョンはただ一人として観客に認識される。にもかかわらずホン・サンスは、映画ではほとんど困難に近い人称の冒険に挑み、大胆な跳躍で私たちを楽しませた、というよりも、楽しむ方法を提示してくれた。世界が一本の乱れない線で結ばれるという考えがもはや誤謬で、『あなた自身とあなたのこと』の結末のように知らないことをそのまま抱きしめる幸福に、気づかせてくれたのだ。


第26回映画祭TAMA CINEMA FORUM
 期間:2016年11月19日(土)~11月27日(日)
 会場:パルテノン多摩、ベルブホール、ヴィータホール
 公式サイト http://www.tamaeiga.org/2016/

第29回東京国際映画祭
 期間:2016年10月25日(火)~11月3日(木・祝)
 会場:六本木ヒルズ、EXシアター六本木ほか
 公式サイト http://2016.tiff-jp.net/ja/


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