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Report アン・ソンギ ナイト

Reported by 井上康子
2012/8/30掲載



はじめに


 圧倒的な演技力と堅実な自己管理で60歳に至る現在までずっと韓国映画界の中心に居続け、清廉さや暖かみを感じさせる人柄からも「国民俳優」と呼ばれ、高い人気を保ち続けているアン・ソンギが、最新主演作『折れた矢』の上映に併せて福岡アジア映画祭のスペシャルゲストとして招待されました。7月14日に開かれたトーク・イベント「アン・ソンギ ナイト」は、映画祭代表でアン・ソンギとも個人的に交流のある前田秀一郎さんが聞き手となり、これまで映画祭で上映されたアン・ソンギ出演作を中心に歴史的な流れに沿って質問し、アン・ソンギが答えるという形式で進められました。

※ 福岡アジア映画祭上映作は映画祭上映時のタイトルで表記。



トーク


前田:子役時代のことや成人してまた俳優になったきっかけから聞かせてください。

アン:5歳から中学生まで10年あまり子役をしました。そして、高校・大学を終えてまた俳優として再デビューしました。先日、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームでハンドプリントをして来ました。その時に「若く見えるが55年間俳優をやってきた」と言ったら皆に笑われました。俳優を再開したのは78年頃です。大学ではベトナム語を専攻しました。軍人で大学生であるROTC(*)に属していたので、卒業後はベトナム戦争に参加する予定でした。けれど、私が卒業と同時に韓国からベトナムへの派遣が中止され、翌年にはベトナム戦争も終わりました。状況が変わったので、三星(サムスン)や現代(ヒュンダイ)などいわゆる大企業の就職試験を受けましたが、私はベトナム語専攻だったため就職できませんでした。ROTCで同期だった人は皆、就職できたのですが。それで、私にできることは何かと考え、それは演技ではないかと思い、俳優になるために努力をしました。2年間準備をし、1978年から4本、助演で映画に出ました。1980年に『風吹く良き日』で主演デビューし、次にイム・グォンテク監督作品『曼陀羅』に主演し、今まで途切れることなく俳優業一筋でやってきました。

(*) Reserve Officers' Training Corps。大学で学生として授業を受けながら、同時に軍事訓練を積み軍人教育を受ける制度。卒業後、軍役に就くことが義務付けられている。

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トークの模様(左:前田氏、右:アン・ソンギ)

前田:特に、ペ・チャンホ監督の作品には12本も主演していますが、コンビがうまくいったのはなぜですか?

アン:ペ・チャンホ監督は元々はイ・ジャンホ監督の助監督でした。イ・ジャンホ監督とは『外人球団』(1988年・第2回で上映)まで一緒に仕事をしました。その後、ペ・チャンホ監督と一緒に作品を作るようになりました。ペ・チャンホ監督とはとても気が合って、映画の解釈の仕方なども彼とは似ているのです。1985年に私が結婚するまでは、いつもその時に予定している映画の話をして、時には一緒にくつろぎに出かけたり、共に長い時間を過ごしました。イ・ジャンホ監督とペ・チャンホ監督は、二人を抜きにしたら1980年代の韓国映画を語れないほど重要な方々です。その1980年代の韓国映画の歴史の中に自分が存在できたのは幸福なことでした。

前田:イ・ジャンホ監督は1987年の第1回に『寡婦の舞』のゲストで来てもらいましたし、ペ・チャンホ監督は1991年の第5回に『神様こんにちは』のゲストで来てもらいました。二人は1980年代の韓国映画を世界に知らしめた方々です。

前田:1988年に出演した『チルスとマンス』(1990年・第4回で上映)は当時、映画として表現することが認められなかった北朝鮮の問題を扱った作品でターニング・ポイントになったと思います。

アン:私はマンス役で出演しましたが、父親が北朝鮮と関わりがあり、当時は連帯罪があったため家族として巻き込まれてしまったという役柄でした(**)。当時、政治的に敏感な部分を題材にした作品です。韓国は1960年代に軍事政権となり、私が映画に出演し始めた1970年代後半は韓国映画にとって最悪の状況で、表現の自由を奪われていました。特に映画は芸術の中でも直接的な表現が可能ですので他のジャンルよりも制限が厳しかったのです。1970年代の韓国映画はそんな理由で文芸映画や啓蒙映画がほとんどで、他に商業映画としては主に女性を主人公としたラブ・ストーリーが多かったです。特に現実離れしたラブ・ストーリーがほとんどでした。1970年代の後半から映画を始めた私としてはもっと社会的で現実的な映画に出演したかったので、そういう作品を選んで出演しました。それで『チルスとマンス』に出演しましたし、主人公が北朝鮮の人間である『南部軍』にも出演しました。『ホワイト・バッジ』は反戦映画で、お金のためにベトナム戦争に参加したという、一般的な描き方とは違う描き方をしていて、当時としてはとても画期的なストーリーで出演を決めました。

(**) 北朝鮮と何らかの関わりがあれば共産主義者とみなされ、本人だけでなく家族に対しても連帯罪として公職に就くことが禁止されるなど厳しい処罰が行われた。マンスは連帯罪により公職に就けず、企業の就職試験でも事実上排除されるのでペンキ屋の看板かきをして生計を立てていたという見方ができる。

前田:1989年の第3回でチャン・ソヌ監督の『成功時代』を上映して、それがきっかけで1990年に初めてソウルに行きました。その時にチャン・ソヌ監督の紹介で初めてアン・ソンギさんに会いました。その時は『南部軍』の撮影中で話を聞かせてもらいました。それから、毎年ソウルに行くようになりアン・ソンギさんとも親しくなりました。1995年の第9回でカン・ウソク監督の『トゥー・コップス』を上映し、翌年の第10回で10周年記念として『トゥー・コップス』を再上映し、その時に初めてアン・ソンギさんにゲストとして来てもらいました。1996年の第1回釜山国際映画祭では私とアン・ソンギさんは一緒に短編映画の審査員をしましたが覚えていますか?

アン:昨日、少しその話を聞いていたので思い出しました。10年以上前のことはあんまり覚えていません(笑)。

前田:その後も毎年、釜山国際映画祭に行って、アン・ソンギさんとも毎年どこかの会場で会って、映画祭の参加者はポジャンマチャという屋台でよくお酒を飲むのですが、お酒もよく一緒に飲んでいます。

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アン・ソンギ自ら乾杯の音頭

前田:次のターニングポイントは、2000年の第14回で上映したイ・ミョンセ監督の『情け容赦なし』への出演になると思います。

アン:私はそれまではずっと主演で、短時間の出演は友情出演でした。『情け容赦なし』での私の役はほとんど助演に近いものでした。それでこの役を私に依頼したイ・ミョンセ監督に戸惑いを感じました。俳優というのは主役ばかりすることができないのは分かっています。歳を取るにつれて助演が増えるのは当然と思いますが、最初は戸惑って辛いものがありましたが、この作品のおかげで自然に主演から助演へ移るきっかけができ、気持ちが楽になりました。新人俳優賞を取ったし、主演俳優賞もたくさん取りましたが、この作品への助演出演を契機に『MUSA-武士-』で助演俳優賞(2001年・青龍映画賞)を取りました。

前田:今回上映した『折れた弓』は13年ぶりにチョン・ジヨン監督が作った作品でしたが、出演の経緯を聞かせてください。

アン:チョン・ジヨン監督作品には、私は『南部軍』『ホワイト・バッジ』に出演しています。13年ぶりに出演することになったのは、チョン監督が準備はされているのになかなか作品化することができなかったという背景がありました。チョン・ジヨン監督がこの作品で再登場したのを映画人たちも大変喜んでくれました。日本には年配の監督がいますが、韓国は年配の監督が活動するのが難しい環境があります。チョン・ジヨン監督(1946年生まれ)より年上の監督はイム・グォンテク監督(1936年生まれ)しかいません。久しぶりにチョン監督がメガホンを取って映画が出来たのは韓国映画史にとってもすばらしいことだと思います。

前田:毎年、釜山でチョン・ジヨン監督に会うと「新作が取れない」と嘆いていたので、この作品が撮れたことを祝福したいです。ベテラン監督を支援するという形でノー・ギャラ出演でしたが、支援の仕方を具体的に教えてください。

アン:作品自体が良くなかったら出演しなかったと思いますが、シナリオがとても良かったし、チョン監督と一緒に仕事がしたかったのでノー・ギャラで出演することに決めました。『フェア・ラブ』(邦題『不器用なふたりの恋』でDVD発売)もノー・ギャラで出演しましたが、良い映画にはノー・ギャラでも出演すべきだと思います。『フェア・ラブ』は低予算映画でしたが、打ち上げの費用も私が出したりしたので、私は負担した金額の方が大きかったのですが、『折れた矢』は投資した金額よりも成功報酬を多く受けとることができました。いずれにしても、価値のある作品には眼がないので、状況によっては皆で力を合わせて良い作品を作りたいといつも思っています(拍手)。



おわりに


 アン・ソンギが福岡アジア映画祭に招待されたのは、これが2回目です。1996年の第10回でアン・ソンギが初めてゲストとして登場した時の場内のどよめきは、今でもはっきり記憶しています。

 16年ぶりにアン・ソンギの話を生で聞いていると、改めて、彼が軍事独裁政権下の人々の苦痛や戦争の傷跡など韓国の人々が抱える痛みをずっと体現してきたのだと納得しました。また、映画祭では1988年の第2回で『ディープ・ブルー・ナイト』、『外人球団』を上映して以降、数多くのアン・ソンギの出演作を上映しており、映画祭のおかげでアン・ソンギの姿をスクリーンや、時には生のゲストとして見る喜びをもらえたのだという振り返りもできました。

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トーク後のサイン会の模様

 年齢を経て主演作が少なくなるということに悩み、乗り越えたという個人的な思いまで語る率直さが親しみを感じさせてくれましたし、良い作品を作るためなら状況によってはノー・ギャラもいとわないという常に韓国映画界全体を考える姿勢が尊敬を集めるのだろうと思いました。

 トークはパーティー形式で、ホテルを会場にして行われましたが、全国から彼のファンが参加し、日本での人気の高さも実感できました。



Reporter's Profile
 井上康子。福岡市在住。1980年代からのアン・ソンギ ファン。福岡アジア映画祭には1995年の第9回から毎回参加している。


第26回福岡アジア映画祭2012
 7月6日(金)~7月8日(日)@九州日仏学館5Fホール
 7月13日(金)~7月15日(日)@中洲・明治安田生命ホール
 公式サイト http://www2.gol.com/users/faff/faff.html


特集 第26回福岡アジア映画祭2012
 福岡アジア映画祭とは?
 Review 『折れた矢』
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 Review 『ペースメーカー』
 Report アン・ソンギ ナイト


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