Report 第21回東京フィルメックス ~現実のために、映画ができること
Text by Kachi
2020/12/31掲載
「淡々とした日常」
映画の解説文などでたびたび聞かれることのあるこの表現が、今年ほどまぶしく感じられたことはないのではないか。新型コロナウイルスは、私たちの暮らしを不安で劇的なものに変えてしまった。映画界もまた無傷ではなく、世界各国の名だたる映画祭が延期・縮小の憂き目を見た。たとえば、釜山国際映画祭は、予定より2週間遅れての開催で、開幕式やレッドカーペット、レセプションパーティーなどを実施せず、作品は例年より100編ほど減らしての上映となった。国内の映画祭も努力を続けていた。以前から考えられていたことだそうだが、今年は東京国際映画祭と東京フィルメックスは同時期の開催である。この原稿を書いている現在のことを思えば、早々に開催してしまったことは、第3波を予感させる現状を回避できたのが幸いだった。
ここでは、東京フィルメックスで鑑賞した作品をご紹介する。
『逃げた女』に観る日常の些末の尊さ
「作家の生き方・私生活と作品は切り分けられるか」
映画のみならず創作の界隈では、しばしばこんなことが議論の俎上に上げられる。特にロマン・ポランスキーやウディ・アレン、キム・ギドクのように、作り手が著しい倫理規範を踏み外した場合に特に取り沙汰される問題であるが、そうではない場合でも、実生活の反映が映画の質を左右するかどうかは、長く論じられている。

『逃げた女』
ホン・サンスの場合はどうか。彼はある時期まで高みからじっと人間観察を行い、そのしばしばみっともなくてばかばかしい一挙手一投足を写し取ってきた。いわば神の視点の存在だったのだが、キム・ミニと出逢って一変したのではないか。『正しい日 間違えた日』は、キム・ミニ扮する画家と恋仲になる映画監督にはっきりと自身を投影する(いい意味での)臆面のなさを見せ、その後はキム・ミニを自身の現し身、孤独な表現者として作品に登場させることがある。ホン・サンスにとって、彼を取り巻く現実は作品のエッセンスなのである。
『逃げた女』の主人公人妻ガミ(キム・ミニ)は、ソウルで家庭菜園をする友人の家に遊びに来ている。彼女の家で食事をしたり、仲の良い先輩に会ったりしている。立ち寄ったミニシアターでは、過去に一悶着あった友人ウジン(キム・セビョク)とその夫(クォン・ヘヒョ)に鉢合わせたりして、心をさざめきだたせたりしている。
ミニマリズムと呼ばれて久しいホン・サンスの作風だが、たしかに登場人物・セット・スタッフ(今回、ホン・サンス自身が音楽を担当している)などは簡素だが、セリフは多い。いつも夫とだけ一緒にいるガミは、最近人に会うことを止めていると話す。「人に会うと、しなくてもいい話をしなければいけないから」だ。ホン・サンスの映画のセリフで考えると、これは“どうでもいい話”とは少しニュアンスが異なるのではないか。なぜなら、『逃げた女』で交わされている(というよりも、ほぼ全てのホン・サンス作品に該当する)会話はだいたいが日常の些末なものであり、しかしだからこそ永遠にこちらは見つめていられるし、ささいな生活の会話の端からふと見えた男女の恋愛事件に、彼らしい色っぽさを感じ取るのだ。もしかすると、現実に住む私たちは、余計な話をしすぎているのかもしれない。ちなみにホン・サンスのキム・ミニは、本当に気持ちがいいほどよく食べる。
『迂闊(うかつ)な犯罪』、歴史は“再現”できるのか
シャーラム・モクリ監督『迂闊(うかつ)な犯罪』。1978年8月に実際にイランで起こった、上映中に放火され400人以上の犠牲者を出したレックス劇場事件を軸にしているが、いわゆるよくあるタイプの犯罪映画でも、歴史の出来事を再現した風の映画でもない。監督が好むという“シネマ・in・シネマ”(映画の中に入れ子のようにして映画が収まっている作品)の形式を取る本作は、たしかにイランで過去にあったイスラム革命といった政治的季節と連結しつつも、映画が事実を再現しうるかという、根源的な問いに果敢に挑んでいるようにみえる。韓国映画を例に引くと、昨年好評を博したカン・ヒョンチョル監督『スウィング・キッズ』が好例である。朝鮮戦争下で米軍が巨済に設置した朝鮮人収容所内で、捕虜たちがタップダンスをするというストーリーには明らかに虚構が入り交じっており、しかし、監督は冒頭の配給ロゴから徹頭徹尾“実際の歴史である”といったトーンで豪胆にやり切っていた。まぎれもなく、その胆力があの映画を力強い感動に導いている。事実の再現とは、突き詰めて考えるなら歴史の一点に存在することが不可能であり、過去の再現とは常に括弧付きの“シミュレーション”としか言いようがないのかもしれない。

『迂闊(うかつ)な犯罪』
『アスワン』フィリピン麻薬撲滅運動、思い通りにならない現実
アリックス・アイン・アルンパク監督のドキュメンタリー映画『アスワン』。“アスワン”とは、フィリピンの民間伝承に登場する吸血鬼で、冒頭でそれらが「人を食らっている」と語っている。ドゥテルテ政権が2016年に誕生したのち、麻薬撲滅戦争を掲げた大統領は超法規的な処置で“麻薬組織”の一掃を命じた。警察は、公権力の名の下で罪のない人たちの殺人も辞さない。親が投獄され、あてもないままゴミための中で生活するストリートキッズたちは、警察への悪態を言い放ち、生活も口ぶりも荒んでいて、ここに至るまで幼い心がいかにすり切れたかがうかがい知れる。警官が無辜の人々を突然逮捕し、金を要求して釈放か起訴かを選ばせる卑劣さには言葉を失う。その後、隠されていた監禁部屋が明るみになると人々は解放されるが、証拠不十分のまま移送されることになってしまう。カメラは図らずも教会と人権委員会の限界が浮き彫りになるところも捉えていて、むなしさは募るばかりだが、事態の打開を探る宣教師、ジャーナリストの姿が救いだ。

『アスワン』
『海が青くなるまで泳ぐ』『仕事と日(塩谷の谷間で)』ドキュメンタリーと劇映画の境界を考える
続いて観た作品たちは、ドキュメンタリー映画とフィクションの境界を根底から曖昧にさせるような作品だった。

『海が青くなるまで泳ぐ』
ジャ・ジャンクー『海が青くなるまで泳ぐ』。本作は、2019年5月に数十名の作家を招いて山西省で開催された文学フォーラムから派生している。文化大革命以前から活躍した山西省の作家である故マー・フォン、現役の4人の作家を焦点に当てている。ちなみにその一人、1960年代生まれの余華は、ハ・ジョンウ監督・主演作品『いつか家族に』の原作小説「血を売る男」の作者である。
18章から成る本作は、章が変わるごとに作家たちの作品の一節が読み上げられるとともに劇伴が大きくなり、作家の子孫や本人らインタビュイーたちは、こうした取材を受けることに慣れているためか滔々と家族と自身について語る。その“すでに出来上がっている”感覚、つまり現実が侵犯するような兆候がまるでうかがえない様子が、まるでドキュメンタリーとして演出されたフィクションのように見えた。

『仕事と日(塩谷の谷間で)』
このジャ・ジャンクーの作品は、C.W.ウィンター&アンダース・エドストロームによる8時間の大作『仕事と日(塩谷の谷間で)』と、不思議な比較関係を持っていた。人口47人の京都府の山村に住まう人々の14ヶ月間を追ったドキュメンタリー的作風でありながら、病床の夫を看病しつつ畑仕事などの日常を送る塩尻たよこ(本人)を中心にした村人の生活を描いた劇映画でもある。加瀬亮、本木雅弘といった俳優陣も役名で出演しているのだから、たしかにフィクションであると言えよう。だが、映像や音の(特に村人の声)の捉え方、たよこが日々つづる日記の挿入など、本作のルックは徹底してドキュメンタリー的である。たよこが日々つづる日記が、そのドキュメンタリー的演出を特に際立たせている。
『海が青くなるまで泳ぐ』『仕事と日(塩谷の谷間で)』は、既に定まったフィクション/ノンフィクションの境目を揺るがした。他に取り上げた作品も、現実とスクリーンとは常に切り結ぶものだと改めて考えさせられるものであった。今のようにコロナ禍で硬直化してしまった現実に、映画という「演出されたもの」がどう作用できるかを考えさせられるのだった。ささやかな日々が手に届かないものとなった今も、映画は今まで通り「映る」ことしかできないだろう。しかし、そこに映るものにしか、失われたものは存在しないだろう。
第21回東京フィルメックス
期間:2020年10月30日(金)~11月7日(土)
会場:有楽町朝日ホールほか
公式サイト https://filmex.jp/2020/
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