Review 『わたしは金正男を殺してない』 ~搾取された女性に光を当てた社会派映画
Text by Kachi
2020/10/4掲載
「事実は小説より奇なり」というが、これほど数奇に満ちた事件はない。2017年2月13日、マレーシアのクアラルンプール空港で起きた一つの殺人事件が、世界を揺るがせたことは記憶に新しい。被害者は北朝鮮の金正日の長男・金正男だったからだ。犯行の全てが防犯カメラに記録されていたことで、犯人は数日のうちに逮捕されるが、金正男にも北朝鮮工作員にも関わりを感じさせない、ごく平凡な20代女性二人だったことも、事件の闇を深くさせる。インドネシア人のシティ・アイシャと、ベトナム人のドアン・ティ・フォン。閉ざされた国家、北朝鮮の最高指導者の異母兄を殺害した彼女たちは一体何者だったのだろうか。

シティ・アイシャ(左)とドアン・ティ・フォン(右)
センセーショナルになりがちな題材の背後で、多くのことを語る映画だ。ベトナムの農村に育ったドアン・ティ・フォンは、アイドルを目指していて、動画を撮るなどして世界へ向けて自身を積極的にアピールしていた。また劇中、「ジャッカス」をはじめとしたイタズラ動画の世界的流行が指摘される。スマートフォンの普及で誰でもリアルタイムに映像を撮ることができるようになると、より生々しいものや“今この瞬間”に近いものの価値が重要視されていく。ドアンはこうして、有名になるためのほんのわずかな野心を利用されたのである。一方でシティ・アイシャも、マレーシアへの出稼ぎ労働者だった。二人は搾取されたのだ。
つまり、二人ではなく誰でもよかったのである。都合のよい駒を、指先でひょいとでもするようにつまみ上げられた二人は、一生が狂ってしまったのだった。映画は単なる北朝鮮の体制批判のみに傾くのではなく、最初から「消え物」として扱われた二人の人生をすくい取っていく。その目線に、片隅で生きることを強いられてきた同性愛者の二人が起こした裁判を克明に追った『ジェンダー・マリアージュ 全米を揺るがした同性婚裁判』(本作の監督ライアン・ホワイトが共同監督を務めた作品)にもあった優しさを感じ取った。
カメラがシティ・アイシャの故郷であるインドネシアの農村を捉えるシーンがある。事件後、ドアンは「私は世界の美しさを信じて疑っていなかったが、今は…」と口ごもる。彼女たちの来し方行く末を思うと、黄金色の美しい田園風景が実に皮肉で、悲しい。
『わたしは金正男を殺してない』
英題 Assassins 製作 2020年
監督 ライアン・ホワイト
2020年10月10日(土)より、シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開
公式サイト https://koroshitenai.com/
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