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Review 『お嬢さん』『アシュラ』『哭声/コクソン』 ~愛と血と暗闇の新しき幕開け

Text by Kachi
2017/3/1掲載



 3月公開の『お嬢さん』『アシュラ』『哭声/コクソン』の3監督は、いずれも待望の新作である。パク・チャヌク監督は3年の歳月をかけて真っ当に成し遂げたメロドラマ『お嬢さん』を作り上げ、ナ・ホンジン監督は6年の沈黙を打ち破って怪物『哭声/コクソン』を産み落とした。キム・ソンス監督が心の中で長らく温めていた『アシュラ』は、みじめなアウトローの生きざまに痺れさせてくれた。

 愛情は濃くじっとりとし、赤黒い血はむうっと生臭く、暗闇の出口は見えない。韓国映画には「過剰」の聖域が存在する。

『お嬢さん』【Sympathy for "Girl" Vengeance】


 この映画の原題は『アガシ/아가씨』。邦題は『お嬢さん』だが、英題は『The Handmaiden』で「侍女」、仏題は『mademoiselle』で「若い婦人」を意味している。格差を持つふたつの身分が、両義のように作品に冠された意味は、どうやら原作となったサラ・ウォーターズ「荊の城」に種明かしがあるようで、パク・チャヌクの敬意がうかがえる。その一方、「望んだ結末とは違っていたことに気づいた」(プレス掲載の監督インタビューより)ことが、創作の動機付けとなった。

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 『お嬢さん』は、掏摸(スリ)で孤児のスッキ(キム・テリ)が、藤原伯爵を名乗る詐欺師(ハ・ジョンウ)の企みに乗り、華族の令嬢・秀子(キム・ミニ)の侍女・珠子として上月家に入り込んだものの、やがて秀子と身も心も交わしていく第一章、秀子の幼少時代からこれまでを語る第二章、劇的な展開をみせる終章の第三章から成るが、特に原作の前半が忠実になぞられながら、簡潔なストーリーラインにまとめられている。原作はヒロインのモード(=秀子)とスーザン(=スッキ)の出自と出逢いを、各々の視点で語ることに紙幅が割かれていて、また、騙し合いと愛の顛末まで二転三転することや物語の余白が、ミステリーとしての強度を高めている。劇中、書痴家でサディストの叔父(チョ・ジヌン)が、幼い頃から姪に有無を言わさず春本を読み込ませ、美貌の朗読人形に仕立て上げる筋立ては「荊の城」も同じで、朗読という行為にある、自分以外の他者の声を介して物語を想像しなければならない不自由さに、倒錯したエロティシズムが匂う。さらにその肉体ではまだ知るよしもない少女に、特殊な形の性行為について朗読させること自体、明らかな嗜虐趣味である。

 春画は通称「ワ印」とも呼ばれ、そこで描かれてきた性愛の儀式は、笑いとして大衆に親しまれたものだった。公開に先駆けた上映の舞台挨拶での、「映画を観ながら積極的に笑って欲しい」というパク・チャヌクの発言や、珠子が秀子とのまぐわいで洩らす大げさな感嘆のセリフなども、そうした受容史が意識されてのことだろう。一方、春画は「人間の内部における植民地支配」(プレス掲載の監督インタビューより)、すなわち、日本帝国主義の永続を信じていた韓国の支配階級が耽溺した日本文化を象徴させたという。

 過去作『親切なクムジャさん』のように、『お嬢さん』には「女性の復讐」という主題がある。パク・チャヌクが求めたのは、ふたりのヒロインが劇中の破廉恥漢から性愛を奪い返すことだ。女性主体の獲得、あるいは奪還と性欲の解放は、『渇き Thirst』『イノセント・ガーデン』ですでに示されていたが、『渇き Thirst』の欲求不満の人妻は、奇病を患い吸血鬼となった神父との血の交歓で悦びに目覚め、『イノセント・ガーデン』の少女は、叔父から暗示的に快楽を教え込まれる。つまり、いずれも男性の手が入る「解放」だったとも言える。『お嬢さん』では、男とでは到底不可能なやり方でふたつの身体が揺れ動く時、どこからか可憐な音が鳴る。この映画は、ふたりの少女が己のエクスタシーに忠実に綴った、イノセントな春本なのだった。

『アシュラ』【虫けらへの鎮魂歌】


 大物の周りをうろちょろしては真っ先に犬死にする、権力者にとっては死のうが生きようがどうでもよい下っ端たちをメインにした地獄のしばき合いが、『アシュラ』では情け容赦なく続く。アウトローが主役となる映画だけでも、古くは『将軍の息子』シリーズ、最近では『チング』2部作や『悪いやつら』『新しき世界』『コインロッカーの女』と、あまりに傑作が多く誕生している韓国映画界において、後発の作品は過去の紋切り型となりがちである。『アシュラ』もそんな非情な運命(さだめ)を避けられないかと懸念したが、どうやら奈落をもう一つ開けたようだ。

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 アンナム市にニュータウン誘致を推し進める俗悪なパク・ソンベ市長(ファン・ジョンミン)の雑用に手を汚す刑事のドギョン(チョン・ウソン)が、市長の前でガラスのコップを噛み割る。それだけで相当の凄味ではある。ソンベに飼い犬として扱われ、市長検挙に野心を燃やすキム検事(クァク・トウォン)には弱みをネタにゆすられる。可愛がっていた後輩ソンモ(チュ・ジフン)は、市長の腰巾着になった途端、兄貴分を格下扱いする。絶望のぬかるみにはまったドギョンがぶちまけた血のガラス片は、まるで砕け散った彼のプライドのようだ。だが、ドスもチャカも全く恐れず、身の危険すらデマゴーグの道具にするバケモノのソンベ市長が、劇中で唯一縮み上がる瞬間なのだ。

 俺もじきに死ぬだろうが、お前も生かしておかない。『アシュラ』の面々には、そんな人間の生き身の限界を超えた存在が宿っているのか。アンナムは架空の都市だが、見渡す限り貧民街のようで、穏やかな陽光が降り注ぐことはない。長い闇に支配されているアンナムこそ、みじめな男に似合いの墓場なのだ。しかし、それでも見せる執念、いわば虫けらの矜持という極北がこの映画にある。

『哭声/コクソン』【この恐怖から逃れるために】


 次々起こる惨殺事件。多量に流される血。静かに伝染する奇病。のどかに見えながら、瘴気をまとった土地。映画のはじまり、村に入り込んだよそ者(國村隼)が仕掛けている釣り針の餌のように、まるですべてが観客を惑わせる罠のようだ。

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 プロローグでは、聖書から「ルカによる福音書24章37節~39節」が引用される。磔にされた7日後に姿を現せたイエス・キリストが、その復活を信じられない弟子へ語りかける場面で、最後まで『哭声』を深く貫いている。

彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。そこでイエスが言われた、「なぜうろたえているのか。どうして心に疑いを起すのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」(新共同訳「聖書」2003年、日本聖書協会)

 ナ・ホンジン監督自身信仰を持っているそうだが、すでに長編デビュー作『チェイサー』において、こうしたキリスト教のイメージや神の存在がほのめかされている。人間をゴミ扱いしてきたデリヘル店長のジュンホにも、殺人鬼を断罪できない。そしてこの惨事について、神は一筋の光も残さなかった。だがもし、偶然の瞬間に神が宿るのだとして、監禁されてのちに殺される風俗嬢の娘に引き合わせたのも、その子が傷を負って病院に運ばれたとき、生きるに値しないジュンホがそれでも這い上がる一瞬─私たちが「救済」と呼ぶものだろう─をつかめるか試したのも、また神の御業だったと言えまいか。映画の中で起こった惨劇と後味の悪さ以上に『チェイサー』は深い問いを突きつけていった。

 『哭声』は、殺人事件、奇病と次々村に降りかかる災厄に対し、村人以外の人物を脊髄反射的に疑い、解決を土俗信仰に頼ってしまうあたりに、村社会の鈍感さと閉鎖性が明確だが、ナ・ホンジンはこうした「見たい」または「見ている」世界の狭さを、後の取り返しのつかない惨劇に繋げている。とにかく作品は高い緊張のまま進んでいくが、同時に、災いを前になすすべなく狼狽(うろた)え、逃げ惑い、あり得ない理屈を信じ込んで右往左往する人間の姿に、時折笑いがこみ上げるのも事実だ。劇中「見る」という行為についての会話が、ひっきりなしに交わされている。夜、交番の外に誰かが立つのを。誰かが誰かを刺し殺す瞬間を。あるいは夫婦の性生活を。「お前が見たのか?」「いつから見ていた?」「どこまで見ていた?」…。やがて何者かが「私をよく見なさい」とささやく。目の前の絶望を信じさせようとして。

 先に行われたプレミア上映会でのティーチインで、國村隼が口にした言葉が最もよく表していよう。曰く「そこに存在しているのかどうかも分からない、その男を見たという人の話の中にいるだけ」にもかかわらず、「自分の目の前にいる男から“お前は何だと思うんだ”と聞かれてしまう」ことで、目の前の「それ」は聖にも邪にも姿を変えてしまう。それを目撃することによって、その存在を信じざるを得なくなってしまうということだ。よく、人間は見たものしか信じないとされている。逆に言えば、信じたいと思った形でしか、物を見ることができないのだ。「見る」という行為から、人間は逃れることができない。『哭声』の恐怖はここにあるのではないか。

 しかし同時に、目に見えず、実体に触れることもできない神を信仰するように、人間は目に見えなくても何かを信じることができるということも、私たちはよく知っている。そのことは、映画を観るという行為にも拡大できよう。あらゆる芸術について、相対する者は如何様な解釈も可能だが、映画のそれは視覚に依存するところが大きく、スクリーンの中に見ている世界という制約がある。だが観客は今、見ているものを疑うことができる。『哭声』のラスト、蒼白の顔でおののく男の先に、救済を見出すことも可能なのではないか。「心に疑いを持つのか?」は反語であり、「心に疑いを起こせ」と言っているのだ。

 さらには、私たちが今生きている世界を見つめる営みにも言うことが出来る。私たちには、見ているこの世界を疑うことが許されているのだ。


『お嬢さん』
 原題 아가씨 英題 The Handmaiden 韓国公開 2016年
 監督 パク・チャヌク 出演 キム・ミニ、キム・テリ、ハ・ジョンウ、チョ・ジヌン、キム・ヘスク、ムン・ソリ
 2017年3月3日(金)より、TOHOシネマズシャンテほかロードショー
 公式サイト http://ojosan.jp/

『アシュラ』
 原題 아수라 英題 Asura : The City of Madness 韓国公開 2016年
 監督 キム・ソンス 出演 チョン・ウソン、ファン・ジョンミン、チュ・ジフン、クァク・トウォン
 2017年3月4日(土)より、新宿武蔵野館ほか全国順次ロードショー
 公式サイト http://asura-themovie.jp/

『哭声/コクソン』
 原題 곡성 英題 THE WAILING 韓国公開 2016年
 監督 ナ・ホンジン 出演 クァク・トウォン、ファン・ジョンミン、國村隼、チョン・ウヒ、キム・ファニ
 2017年3月11日(土)より、全国ロードショー
 公式サイト http://kokuson.com/


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