Review 『トガニ 幼き瞳の告発』はなぜ韓国社会を変革したのか?
Text by 加藤知恵
2012/8/1掲載
教職者による幼い聴覚障害児への性的暴行を告発した本作は、昨年9月に韓国で公開されるや一ヶ月余りで460万人の観客を動員。その反響を受けて事件は再調査が実施され、わずか半年の間に、加害者の再逮捕、現場となった障害者学校の閉校、更には障害児への性暴力犯罪の処罰に関する法律改正が実現された。一連の現象が「トガニ事態」と命名されるほど韓国社会を揺り動かした作品だ。

原作は韓国のベストセラー作家・孔枝泳(コン・ジヨン)の同名小説。軍隊服役中に小説を読み衝撃を受けた俳優のコン・ユ自らが働きかけ、映画化が実現したという。孔枝泳は実力・話題性を兼ね備えた韓国を代表する人気作家であり、2006年に映画化された『私たちの幸せな時間』も動員300万人を超えるヒットを記録している。もし作者が別の作家だったならば、この事件がこれほど注目を集めることはなかったかもしれない。彼女の影響力は大きく、決して簡単な素材ではないこの『トガニ 幼き瞳の告発』も10社以上の映画制作会社が版権争いに名乗りを上げた。
その権利を勝ち取ったサムゴリ・ピクチャーズが白羽の矢を立てたのが、ファン・ドンヒョク監督だ。彼はソウル大学・新聞学科在学中に映画の魅力に目覚め、大学院で初めて自主映画製作を経験。その後、アメリカへの映画留学中に、韓国の海外養子をテーマにした短編『Miracle Mile/奇跡の道路』(2005)を撮影し、注目を浴びる。そしてその作品を見た制作会社から依頼を受けた『マイ・ファーザー』(2007)で長編デビュー。冷静かつ鋭い視点を持つ社会派監督として高い評価を得た。その彼も、『トガニ 幼き瞳の告発』の依頼については決意までに一ヶ月の検討期間を要したという。告発という目的のためとはいえ、残忍で生々しい犯罪現場を映像化するのは精神的にも容易ではない。また、小説で細かに描かれている人物の心情や作者の主張を、映画という媒体でどのように表現すべきか、演出・脚本上の難しさもあった。
実際に小説と読み比べてみると、設定や構成が大きく変更されているのが分かる。例えばコン・ユ演じる主人公カン・イノのキャラクターの違い。原作ではイノには妻子がおり、事業に失敗し経済的に疲弊する中で、妻の紹介によりかろうじて障害者学校の職を得て教師に復職する。そして彼が学校を摘発する過程で、彼自身もまた過去に教え子と関係を持った事実が暴露され、罪の意識と正義感の間で葛藤するという、ある意味アウトロー的な側面を持つキャラクターだ。しかし時間的な制約やコン・ユ本人のイメージとの兼合いもあり、映画ではトラウマの部分は全て削除され、「妻と死別し病気の子供を抱える美術教師」というかなりシンプルで清潔な設定に変更となった。ストーリーの厚みが半減した点は残念だが、一方でこの美術教師という設定は非常に効果的だ。映画の前半に、知的障害を持つユリとイノがお互いの似顔絵を描き合うシーンがある。「顔に傷があるからイヤ」というユリの台詞で事件の卑劣さを暗示させるだけでなく、この一場面のみでイノの誠実さ、ユリの純粋さ、そして二人の心理的距離の変化を全て描き切っており、監督の実力を感じた。
また全体的に、よりドラマティックな内容の脚色が目立つ。特に印象的なのは、イノが告発を決意するシーン。校長や同僚に反発や不信感を抱きつつも、生活のために踏み切れないイノが、校長室からゴルフクラブを持ったパク教師に連行される傷だらけのミンスとすれ違う。その瞬間彼の中で抑え込んでいた感情が一気に噴出し、校長に贈るはずの鉢植えでパク教師に殴り掛かる。ストーリーのターニングポイントとなるこの重要な場面は、すべて映画版の創作だ。そして、衝撃的で悲しいエンディング。原作では、事実上裁判に敗れたイノが活動から手を引きソウルへ帰京してしまう。残された子供たちの生活は多少改善されるものの、状況は大きく変わらない。小説らしい、曖昧で余韻を残した終わり方だ。しかし元々関心のある人たちによって読まれ、じっくりと時間をかけて感情移入を促す小説とは違い、映画は2時間という枠の中でいかに観客の心を揺さぶることができるかが重要である。映画版は小説よりもはるかにシンプルで、憤り・悲しみの感情をダイレクトに刺激する作りになっている。

このような演出効果が一つの要因ではあろうが、なぜ小説ではなく、映画の公開によって一連の「トガニ事態」が起こったのか。先日、韓国の法曹関係者と会う機会があり、疑問をぶつけてみた。まず第一に、この作品が公開されたのは、ソウル市長選挙を一ヶ月後に控えて国民が政治・社会情勢に非常に敏感になっていた時期だ。その中で「幼い障害児への暴行」という最も残忍な事件が明るみになったことをきっかけに、他の虐待事件や性犯罪事件が次々と告発された。それが大統領や政治家の目にも留まり、ある種政治的なパフォーマンスの意図も含めて処分が行われたのでは?とのこと。また、過去30年の間に軍事政権から民主化を成し遂げ、大統領によって政治体制が大きく変化する韓国では、法改正自体が日本より頻繁に行われている。改正運動の主体となるのは市民団体やNPOだ。今回の事件もNPOや人権団体によって摘発がなされ、強い要請を受けたことで、法改正が容易に進んだのではないか、という話だった。
金属を溶かす容器である「坩堝(るつぼ)」を意味する「トガニ」という言葉。霧の深い田舎町の障害者学校という閉鎖された空間で、炎に身を焼かれるような苦しみの中、ただじっと怒り・悲しみ・絶望に震えていた子供たち。そのような重々しいテーマの作品にもかかわらず、撮影中は常に笑いの絶えない、明るく楽しい現場だったという。目を背けたくなるようなストーリーや予告編の映像に身構えてしまう方もいるかも知れないが、巧妙なストーリー構成と演出で観客の心を掴み、社会現象を巻き起こした一大ヒット作品として、ぜひ劇場に足を運んでいただきたい。
『トガニ 幼き瞳の告発』
原題 トガニ(るつぼ)/英題 Silenced/韓国公開 2011年
監督 ファン・ドンヒョク 主演 コン・ユ、チョン・ユミ
2012年8月4日(土)より、シネマライズ、新宿武蔵野館ほか全国ロードショー
公式サイト http://dogani.jp/
Reviewer's Profile
加藤知恵。東京外国語大学で朝鮮語を専攻。漢陽大学大学院演劇映画学科に留学。帰国後、シネマコリアのスタッフに。花開くコリア・アニメーションでは長編アニメーションの字幕翻訳を担当している。先日、久しぶりに韓国を旅行。美味しい料理と韓国人の情の深さにたっぷり癒されてまいりました。
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