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Report 『哭声/コクソン』プレミア上映、ナ・ホンジン監督&國村隼トーク ~國村隼演じる「よそ者」をどう思うか観客に問い続ける映画

Text by 加藤知恵
Photo by Kachi
2017/3/1掲載



 『チェイサー』『哀しき獣』といった衝撃作でカンヌでも名高いナ・ホンジン監督の最新作『哭声/コクソン』が、3月11日よりシネマート新宿ほかで公開される。それに先立ち1月24日に、プレミア上映とナ・ホンジン監督、國村隼のティーチインが行われた。

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ナ・ホンジン監督(右)と國村隼

 山間の小さな村「谷城(コクソン)」で次々と起こる猟奇殺人事件。村人は山奥に住む「よそ者」の日本人の男(國村隼)を犯人と噂し、警察官のジョング(クァク・トウォン)も彼を怪しみ追い始める。果たしてその男は何者であり、本当にこの事件の犯人なのか。最後まで先の読めない、多様な解釈を可能にする展開が続く。ふんどし姿での怪演や滝行、山中での疾走シーンなどハードな撮影をこなし、ミステリアスな役どころを演じ切った國村隼は、昨年の青龍映画賞で外国人として初めて男優助演賞・人気スター賞をダブル受賞するという快挙を果たした。

 ジョングの娘を救うムーダン(巫俗の霊媒師)を演じたファン・ジョンミンの、どこかユーモラスでありながら重厚な演技も圧巻である。クライマックスとなる「クッ」(祈祷)のシーンはほぼノーカットで6台のカメラを回して撮影され、料理や小物といった細部まで本物のムーダンの意見を取り入れリアルに再現されたという。そして「“背景”を通じ、一種の神の存在を表現したかった」という監督の言葉どおり、ショッキングかつ緊迫感あふれる映像・ストーリーを、荘厳で美しい自然の風景が淡々と包み込んでいる。本作にはムーダンだけでなくキリスト教の司祭を目指す若者も登場し、「よそ者」との戦いを繰り広げる。『チェイサー』や『哀しき獣』を通し、アクション・サスペンスでありながらも社会的マイノリティーに関心を寄せてきたナ・ホンジン監督が、本作では自身の宗教観をも反映させ、偏見や固定観念、しいては差別の問題にも彼なりの答えを提示しているように感じられた。

ティーチイン


司会:ではまずお二人からご挨拶をお願いします。

國村:どうも、こんばんは。映画をご覧になったお客さんの前に出てくるのは緊張します。皆さんは日本で最初にこの『哭声』をご覧になった人たちです。本当に嬉しくて、皆さん一人一人に拍手を送りたい気持ちです。本当にありがとうございます。

監督:こんばんは。ナ・ホンジンです。お会いできて嬉しいです。今日はお越し下さり本当にありがとうございます。上映時間も長いのにトークまでお付き合い下さって…。皆様トイレは大丈夫でしょうか?(会場、笑い) シナリオの段階から6年ほどかけて作った作品です。披露できて本当に嬉しいですし、貴重なお時間をいただいて有難く思っています。今からのティーチインも精一杯お答えします。

司会:では早速質問を受け付けましょうか。

質問者1:リドリー・スコット監督の製作会社からリメイクのオファーがあり、韓国サイドの代表が「この題材で撮れるのはナ・ホンジン監督以外にいない」と明言されたそうですが、もしハリウッドからリメイクのオファーが来たらもう一度この作品を撮ろうと思いますか? その際にはまた國村隼さんを起用されますか? 國村さんはオファーがあったらどうされますか?

監督:彼の会社から連絡があったと聞いています。確かに代表が同様の話をしたそうですが、冗談で言ったのだと思います。オファーが来たとして、私は監督するつもりはありませんが、國村さんは絶対に必要だと思うので推薦しておきます。

國村:お薦めされても、ナ・ホンジン監督がメガホンを握らないなら私も引き受けないと思います。

監督:では2人ともやらないということにしておきます(笑)。

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質問者2:『チェイサー』や『哀しき獣』など、これまでの監督の作品はどちらかというと社会派サスペンスのような作品で、今作品はオカルトというか…、表現しにくい内容で、違うスタイルだと思いますが、監督が元々作りたかったのはどちらのタイプの作品でしょうか。

監督:この作品は前の2作を撮った後、もう少し自分らしく自由に表現したいという意欲が高まって作り始めた作品なので、自分のやりたいことを詰め込んで思うように撮れたと思います。

質問者3:今回、國村さんを起用された一番の理由は何だったのでしょうか。日本でもベテラン俳優として色んな役を演じられていますが、一番の決め手は何だったのかと。それと國村さんはナ・ホンジン監督の現場で印象的だったのはどんな点でしょうか。

監督:シナリオが完成して日本人の俳優が必要になり、國村さんと同年代の俳優を調べました。國村さんの出演作は既に見ていて素晴らしい俳優だと思っていましたが、特徴的だったのは、1つのカットの中でまるで編集したかのように変化されていることでした。同じカットの中だとは信じられないような演技でした。見ての通り今回の國村さんの役は、状況ごとに「よそ者」とはどういうものか、観客に疑問を投げかけ続ける重要な存在です。その役を演じられるのは國村さんしかいないと確信を持ち、オファーをしました。

國村:オファーをいただいた際に、監督の『チェイサー』と『哀しき獣』を見ました。その段階で、とんでもない才能を持った人だと感じました。そしていざ現場に入り撮影を進める中で、この人は本当に才能の塊が人の形をしているような人だなと。というのは、現場で監督はなかなか撮影を終わらせないんです。1つテイクを撮ると、基本のビジョンにプラスして新たなイメージがどんどんと浮かんでくるタイプの方でして。むやみやたらと撮り重ねるのではなく、そのように膨らむイメージに沿ってテイクを重ねているわけです。そんな様子を現場で目の当たりにして、想像以上にすごい人だなと感じました。

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質問者4:ファン・ジョンミンさんのファンなのですが、國村さんと現場でお話をされた内容など、何かエピソードがあれば教えて下さい。

國村:実はファンさんと撮影現場でご一緒したことはほとんどありません。ただそんな中でも、韓国の役者さんは映画の世界に進むまでに色んなスキルを重ねていらっしゃって、彼も学生時代に演劇を始めて、それから映像の世界に入って様々な経験を重ねて…、だから経済的にも非常に苦労したという話をされていました。その辺は日本の役者の事情とも似ているので、面白いな、同じなのかなと思いました。今やあれほどの大スターですが、彼は全く驕るところのない人です。色んなキャラクターを演じられていますが、今回もファンさん自身の物事に対する真摯な姿勢が現れていると感じました。

質問者4:監督には、作品全般を通して何かキャスティングの際の基準があれば教えていただきたいのですが。

監督:一番その役にふさわしく適切だと感じた人を選びます。俳優同士のバランスも重視します。基準といえるのはそれくらいでしょうか。先ほどの質問について補足しておくと、國村さんとファン・ジョンミンさんは劇中では一度も会わないので、一緒に撮影をしたことはありません。1箇所だけ2人が会うシーンがあったんですが、そこも編集でカットになりました。

質問者5:以前の作品でキム・ユンソクさんが、看板の上から飛び込みをさせられたのにきちんと映っていなかったと聞きました。監督は國村さんのことを「ソンセンニム(先生)」と呼ばれるくらい尊敬されているようですが、目上の方に無理なことをお願いするのは大変じゃなかったでしょうか。韓国は年上の方を敬う文化でもありますし。國村さんもそういう大変なシーンではどう思われたのか気になりました。

監督:心から申し訳なく思っています。ただシナリオがそのように出来ていたので、どうしようもなかった部分はあります。でも撮影で大変な思いをされた分、撮影以外の部分で何とかケアしようと最善を尽くしたつもりです。今でも申し訳なく思っていますし、この映画が日本で成功しなかったら國村さんにどう言われるか不安です。撮影を通して多くのことを國村さんから学び、驚かされ、感嘆させられました。また撮影を経て更に尊敬の気持ちが高まり、好きになりました。改めて謝罪とお礼の意を述べさせていただきます。

國村:何だか気恥ずかしいですね。私も台本を読んでこういうことをしなければいけないというのは予め分かった上でオファーを受けました。ただ一番引っかかったのは、「もしかして俺はカメラの前ですっぽんぽんになるんか?」という部分でした。でも『哭声』という作品のこの世界観はすごいなと思い、ここで男にならないといけない、他の人がこの役を演じるのを見るのは嫌だなと思いました。だからそれで監督や観客の皆さんにご迷惑なものを曝したとしても、それでもやってみたいと。ですから監督にひどいことをさせられたという意識はなく、あくまでも自分からその世界に飛び込んだという感じです。

司会:最初の案ではふんどし姿じゃなかったんですか?

國村:言い忘れましたが、最初の脚本では、すっぽんぽんだったんです。

司会:ふんどしは國村さんから提案されたんですか?

國村:いいえ。もちろん韓国でも映倫に相当する組織はありますし、監督からやはりそれはまずかろうと。日本といえば何かと聞かれたので、それならふんどしかなと思いました。劇中でおじさんが「おむつ」と言ってますが、そういうふうにも見えたんでしょうね。

司会:日本といえばふんどしだと。そこであの台詞も付け加えられたんですね。

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質問者6:この映画は見る側の想像に委ねる部分が多いと思うのですが、監督の中で國村隼さんの役に関しては細かい設定を考えていらっしゃったのでしょうか。また國村さんはある程度人物の背景なども解釈をした上で役作りをされたのでしょうか。

監督:「よそ者」は観客に質問を投げかけ続ける立場にあります。これは映画そのものが各状況で「よそ者」をどう思うかという質問を観客一人一人に問い続ける作りだからです。また「よそ者」というキャラクターをどのように捉えるかによって、他の登場人物についての認識も整理されていきます。ですからたった一つの解釈でこの映画を定義することはできないし、私自身もキャラクターを一言では定義できませんが、観客の皆さんがどんな解釈をされようと、その全てが正しいと思っています。観客の皆さんが結論を出して完成させてくれる映画になることを望んでいます。

國村:その男を演じるにあたり、一般的な役作りのアプローチは全く機能しないと感じました。そもそも実在するものではないかもしれないし、人なのか何らかの物体なのか、そこに存在しているのかどうかも分からない。その男を見たという人の話の中にいるだけで、司祭になろうとする若者も、自分の目の前にいる男から「お前は何だと思うんだ」と聞かれてしまう。そうすると、そこには悪魔として存在する。いや、存在してるのかどうかも分かりませんが。そういうイメージなんですね。ですから存在自体が不明なものを作り上げるというのは無理な話で、強引に実感を伴うイメージを1つ想像するならば、劇中でのキャラクターの存在意義というか役割は何だろうと。そこからアプローチしたほうがいいと思いました。例えば谷城(コクソン)という小さな片田舎の村という池の中にポンと放り込まれた異物としての石ころ。石ころが放り込まれることによって起こる波紋。男はその石みたいなものかもしれない、と考えました。

質問者7:監督と國村さんから見たチョン・ウヒさんの印象をお聞かせ下さい。

國村:彼女もまだ若いですが、舞台も経験してきちんとスキルとして積んでいて、女優さんとしてのクオリティーが高いと感じました。何より彼女はムミョンというキャラクターがどういうものかを、ちゃんと言葉に置き換えて語ることができる人です。とにかく若いけれどクオリティーの高い女優さん、というのが僕の印象です。

監督:沢山の女優の中からオーディションで選ぶ過程で、彼女が最適だと思いました。なぜそう感じたかというと、彼女は大変なパワーを持っているからです。外部から見える力というよりは内的な「気」のようなものですが。2時間半ほどのこの映画の中で、あらゆる人物や状況の背景になるのは谷城(コクソン)という場所です。この背景を通じて、直接的ではないものの一種の神の存在を表現しようと努力しました。サウンドや時間や天気の変化など、あらゆる要素を通してイメージを伝えようとしていました。そしてそのように積み重なったものを、チョン・ウヒさんが演じるムミョンという役が最終的に全て伝えてくれるのを望んでいたんですね。前半には出番や台詞はほぼありませんが、緊張感を保ってくれる力が必要でした。実際に彼女は現場では可愛らしい妹のような存在でありながら、期待以上にパワフルな演技をしてくれました。

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司会:撮影中も含めて、監督がなぜそんなに天気にこだわっていたのかというのがよく分かりました。最後にお二人から皆さんにご挨拶をいただければと思います。

國村:今日はお越し下さり本当にありがとうございました。最初に聞くべきでしたが、この作品はどうでしたか?(観客拍手) お楽しみいただけたのがしっかりと伝わってきます。これは今までになかったタイプの映画だと思います。カテゴライズできない映画であり、映画の新たな楽しみ方を味わえると思います。お友達にもそういう体験をさせてあげたいと思った方は、ぜひ一緒に見に来て下さい。ありがとうございました。

監督:普通は映画を撮り終えたあと、監督として残念に思える部分があります。でもこの作品には何の後悔もありません。ナ・ホンジンという監督の持つ力を全て注いで作った映画です。どのように評価されても受け入れる覚悟です。6年を費やし全てを注いで完成させた作品なので、周りに感想を伝えていただきたいです。長い時間、最後までお付き合い下さり本当にありがとうございました。


『哭声/コクソン』
 原題 곡성 英題 THE WAILING 韓国公開 2016年
 監督 ナ・ホンジン 出演 クァク・トウォン、ファン・ジョンミン、國村隼、チョン・ウヒ、キム・ファニ
 2017年3月11日(土)より、全国ロードショー
 公式サイト http://kokuson.com/

Writer's Note
 加藤知恵。ところどころ関西弁を混ぜ、囁くように話す國村さんの口調が非常に温かくて印象的でした。その温かく柔らかい雰囲気がゆえにミステリアスな役柄がより恐ろしく見え、絶妙にマッチしていたのかもしれません。


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Review 『お嬢さん』『アシュラ』『哭声/コクソン』 ~愛と血と暗闇の新しき幕開け

Text by Kachi
2017/3/1掲載



 3月公開の『お嬢さん』『アシュラ』『哭声/コクソン』の3監督は、いずれも待望の新作である。パク・チャヌク監督は3年の歳月をかけて真っ当に成し遂げたメロドラマ『お嬢さん』を作り上げ、ナ・ホンジン監督は6年の沈黙を打ち破って怪物『哭声/コクソン』を産み落とした。キム・ソンス監督が心の中で長らく温めていた『アシュラ』は、みじめなアウトローの生きざまに痺れさせてくれた。

 愛情は濃くじっとりとし、赤黒い血はむうっと生臭く、暗闇の出口は見えない。韓国映画には「過剰」の聖域が存在する。

『お嬢さん』【Sympathy for "Girl" Vengeance】


 この映画の原題は『アガシ/아가씨』。邦題は『お嬢さん』だが、英題は『The Handmaiden』で「侍女」、仏題は『mademoiselle』で「若い婦人」を意味している。格差を持つふたつの身分が、両義のように作品に冠された意味は、どうやら原作となったサラ・ウォーターズ「荊の城」に種明かしがあるようで、パク・チャヌクの敬意がうかがえる。その一方、「望んだ結末とは違っていたことに気づいた」(プレス掲載の監督インタビューより)ことが、創作の動機付けとなった。

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 『お嬢さん』は、掏摸(スリ)で孤児のスッキ(キム・テリ)が、藤原伯爵を名乗る詐欺師(ハ・ジョンウ)の企みに乗り、華族の令嬢・秀子(キム・ミニ)の侍女・珠子として上月家に入り込んだものの、やがて秀子と身も心も交わしていく第一章、秀子の幼少時代からこれまでを語る第二章、劇的な展開をみせる終章の第三章から成るが、特に原作の前半が忠実になぞられながら、簡潔なストーリーラインにまとめられている。原作はヒロインのモード(=秀子)とスーザン(=スッキ)の出自と出逢いを、各々の視点で語ることに紙幅が割かれていて、また、騙し合いと愛の顛末まで二転三転することや物語の余白が、ミステリーとしての強度を高めている。劇中、書痴家でサディストの叔父(チョ・ジヌン)が、幼い頃から姪に有無を言わさず春本を読み込ませ、美貌の朗読人形に仕立て上げる筋立ては「荊の城」も同じで、朗読という行為にある、自分以外の他者の声を介して物語を想像しなければならない不自由さに、倒錯したエロティシズムが匂う。さらにその肉体ではまだ知るよしもない少女に、特殊な形の性行為について朗読させること自体、明らかな嗜虐趣味である。

 春画は通称「ワ印」とも呼ばれ、そこで描かれてきた性愛の儀式は、笑いとして大衆に親しまれたものだった。公開に先駆けた上映の舞台挨拶での、「映画を観ながら積極的に笑って欲しい」というパク・チャヌクの発言や、珠子が秀子とのまぐわいで洩らす大げさな感嘆のセリフなども、そうした受容史が意識されてのことだろう。一方、春画は「人間の内部における植民地支配」(プレス掲載の監督インタビューより)、すなわち、日本帝国主義の永続を信じていた韓国の支配階級が耽溺した日本文化を象徴させたという。

 過去作『親切なクムジャさん』のように、『お嬢さん』には「女性の復讐」という主題がある。パク・チャヌクが求めたのは、ふたりのヒロインが劇中の破廉恥漢から性愛を奪い返すことだ。女性主体の獲得、あるいは奪還と性欲の解放は、『渇き Thirst』『イノセント・ガーデン』ですでに示されていたが、『渇き Thirst』の欲求不満の人妻は、奇病を患い吸血鬼となった神父との血の交歓で悦びに目覚め、『イノセント・ガーデン』の少女は、叔父から暗示的に快楽を教え込まれる。つまり、いずれも男性の手が入る「解放」だったとも言える。『お嬢さん』では、男とでは到底不可能なやり方でふたつの身体が揺れ動く時、どこからか可憐な音が鳴る。この映画は、ふたりの少女が己のエクスタシーに忠実に綴った、イノセントな春本なのだった。

『アシュラ』【虫けらへの鎮魂歌】


 大物の周りをうろちょろしては真っ先に犬死にする、権力者にとっては死のうが生きようがどうでもよい下っ端たちをメインにした地獄のしばき合いが、『アシュラ』では情け容赦なく続く。アウトローが主役となる映画だけでも、古くは『将軍の息子』シリーズ、最近では『チング』2部作や『悪いやつら』『新しき世界』『コインロッカーの女』と、あまりに傑作が多く誕生している韓国映画界において、後発の作品は過去の紋切り型となりがちである。『アシュラ』もそんな非情な運命(さだめ)を避けられないかと懸念したが、どうやら奈落をもう一つ開けたようだ。

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 アンナム市にニュータウン誘致を推し進める俗悪なパク・ソンベ市長(ファン・ジョンミン)の雑用に手を汚す刑事のドギョン(チョン・ウソン)が、市長の前でガラスのコップを噛み割る。それだけで相当の凄味ではある。ソンベに飼い犬として扱われ、市長検挙に野心を燃やすキム検事(クァク・トウォン)には弱みをネタにゆすられる。可愛がっていた後輩ソンモ(チュ・ジフン)は、市長の腰巾着になった途端、兄貴分を格下扱いする。絶望のぬかるみにはまったドギョンがぶちまけた血のガラス片は、まるで砕け散った彼のプライドのようだ。だが、ドスもチャカも全く恐れず、身の危険すらデマゴーグの道具にするバケモノのソンベ市長が、劇中で唯一縮み上がる瞬間なのだ。

 俺もじきに死ぬだろうが、お前も生かしておかない。『アシュラ』の面々には、そんな人間の生き身の限界を超えた存在が宿っているのか。アンナムは架空の都市だが、見渡す限り貧民街のようで、穏やかな陽光が降り注ぐことはない。長い闇に支配されているアンナムこそ、みじめな男に似合いの墓場なのだ。しかし、それでも見せる執念、いわば虫けらの矜持という極北がこの映画にある。

『哭声/コクソン』【この恐怖から逃れるために】


 次々起こる惨殺事件。多量に流される血。静かに伝染する奇病。のどかに見えながら、瘴気をまとった土地。映画のはじまり、村に入り込んだよそ者(國村隼)が仕掛けている釣り針の餌のように、まるですべてが観客を惑わせる罠のようだ。

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 プロローグでは、聖書から「ルカによる福音書24章37節~39節」が引用される。磔にされた7日後に姿を現せたイエス・キリストが、その復活を信じられない弟子へ語りかける場面で、最後まで『哭声』を深く貫いている。

彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。そこでイエスが言われた、「なぜうろたえているのか。どうして心に疑いを起すのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」(新共同訳「聖書」2003年、日本聖書協会)

 ナ・ホンジン監督自身信仰を持っているそうだが、すでに長編デビュー作『チェイサー』において、こうしたキリスト教のイメージや神の存在がほのめかされている。人間をゴミ扱いしてきたデリヘル店長のジュンホにも、殺人鬼を断罪できない。そしてこの惨事について、神は一筋の光も残さなかった。だがもし、偶然の瞬間に神が宿るのだとして、監禁されてのちに殺される風俗嬢の娘に引き合わせたのも、その子が傷を負って病院に運ばれたとき、生きるに値しないジュンホがそれでも這い上がる一瞬─私たちが「救済」と呼ぶものだろう─をつかめるか試したのも、また神の御業だったと言えまいか。映画の中で起こった惨劇と後味の悪さ以上に『チェイサー』は深い問いを突きつけていった。

 『哭声』は、殺人事件、奇病と次々村に降りかかる災厄に対し、村人以外の人物を脊髄反射的に疑い、解決を土俗信仰に頼ってしまうあたりに、村社会の鈍感さと閉鎖性が明確だが、ナ・ホンジンはこうした「見たい」または「見ている」世界の狭さを、後の取り返しのつかない惨劇に繋げている。とにかく作品は高い緊張のまま進んでいくが、同時に、災いを前になすすべなく狼狽(うろた)え、逃げ惑い、あり得ない理屈を信じ込んで右往左往する人間の姿に、時折笑いがこみ上げるのも事実だ。劇中「見る」という行為についての会話が、ひっきりなしに交わされている。夜、交番の外に誰かが立つのを。誰かが誰かを刺し殺す瞬間を。あるいは夫婦の性生活を。「お前が見たのか?」「いつから見ていた?」「どこまで見ていた?」…。やがて何者かが「私をよく見なさい」とささやく。目の前の絶望を信じさせようとして。

 先に行われたプレミア上映会でのティーチインで、國村隼が口にした言葉が最もよく表していよう。曰く「そこに存在しているのかどうかも分からない、その男を見たという人の話の中にいるだけ」にもかかわらず、「自分の目の前にいる男から“お前は何だと思うんだ”と聞かれてしまう」ことで、目の前の「それ」は聖にも邪にも姿を変えてしまう。それを目撃することによって、その存在を信じざるを得なくなってしまうということだ。よく、人間は見たものしか信じないとされている。逆に言えば、信じたいと思った形でしか、物を見ることができないのだ。「見る」という行為から、人間は逃れることができない。『哭声』の恐怖はここにあるのではないか。

 しかし同時に、目に見えず、実体に触れることもできない神を信仰するように、人間は目に見えなくても何かを信じることができるということも、私たちはよく知っている。そのことは、映画を観るという行為にも拡大できよう。あらゆる芸術について、相対する者は如何様な解釈も可能だが、映画のそれは視覚に依存するところが大きく、スクリーンの中に見ている世界という制約がある。だが観客は今、見ているものを疑うことができる。『哭声』のラスト、蒼白の顔でおののく男の先に、救済を見出すことも可能なのではないか。「心に疑いを持つのか?」は反語であり、「心に疑いを起こせ」と言っているのだ。

 さらには、私たちが今生きている世界を見つめる営みにも言うことが出来る。私たちには、見ているこの世界を疑うことが許されているのだ。


『お嬢さん』
 原題 아가씨 英題 The Handmaiden 韓国公開 2016年
 監督 パク・チャヌク 出演 キム・ミニ、キム・テリ、ハ・ジョンウ、チョ・ジヌン、キム・ヘスク、ムン・ソリ
 2017年3月3日(金)より、TOHOシネマズシャンテほかロードショー
 公式サイト http://ojosan.jp/

『アシュラ』
 原題 아수라 英題 Asura : The City of Madness 韓国公開 2016年
 監督 キム・ソンス 出演 チョン・ウソン、ファン・ジョンミン、チュ・ジフン、クァク・トウォン
 2017年3月4日(土)より、新宿武蔵野館ほか全国順次ロードショー
 公式サイト http://asura-themovie.jp/

『哭声/コクソン』
 原題 곡성 英題 THE WAILING 韓国公開 2016年
 監督 ナ・ホンジン 出演 クァク・トウォン、ファン・ジョンミン、國村隼、チョン・ウヒ、キム・ファニ
 2017年3月11日(土)より、全国ロードショー
 公式サイト http://kokuson.com/


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